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記者(以下、記): 能楽師という職業って、なろうと思ってもなかなかなれないものだと思うのですが、どのようなきっかけでこちらの道に進むことになったのですか?
内潟さん: 私の父親が能楽の謡曲、いわゆる謡い手、それから仕舞もやっていまして、私も小学生の頃に父から直接謡曲とか仕舞を教わったんです。その時は自分で「これが能楽だ!」とか「これを自分が一生続けていこう」なんていうのは、ちっとも思っていませんでした。ただ何と言うか、一方的に父が子供に伝えていこうという事だったのだと思うのですけれども、はっきり言えば、強制的に無理やり(笑)、やらせられた、という状態でした。 そうしまして、中学・高校になりますと受験が忙しかったものですから、一時こちらの習い事は中断した形になりました。大学に入りまして、大学は地元の金沢大学なのですけれども、その時に父から「今度は今までのものとか、仕舞ではないものを始めたらどうか」と言われたんですね。能楽というのは、謡いとか仕舞の他に、今私がやっております楽器、笛やぽんぽんと打つ鼓(つづみ)、大鼓(おおつづみ)、それから太鼓(たいこ)、この4つの楽器を使うんです。これを「お囃子(おはやし)」と言うんですね。この楽器を演奏する4人のことを「囃子方(はやしかた)」と言います。そのうちのどれかをやってみないか、という話が父の方からありました。方向転換みたいなものですね。その時に特別に「これだ」という意識は無かったんですけれどもね、「やってみようかなぁ」というさりげない感じで始めたんです。ということで、大学に入った時に横笛(能管)の方に転向したんですね。金沢に"故片岡(かたおか)"というお笛の先生がおりまして、そちらの方に入門しました。その後4年間ですが、その時はいわば「素人(しろうと)」として習いました。 記: そこからプロとして活躍されるようになったのは、なぜですか? 内潟さん: 大学4年間を卒業しまして、その時にまた父の勧めがありまして、せっかくそこまでやったからには、金沢では発展性がないから東京に出て、本職でやっている私達の流儀(りゅうぎ)の長老である偉い人のところに、今度は「玄人(くろうと=プロ)」として入門したらどうか、という話があったんですね。その時はまだ自分でもプロになるという気はそこまでなかったんですけれども、卒業して上京しまして、本式に笛方の道に入門したんです。それが"故寺井(てらい)"という先生でした。その時に入門しまして入った会が、能楽養成会という会で、これは将来能楽のプロになる人、つまり能楽師を育てる専門の組織に入りました。そこへ入会しまして、私は故寺井という師匠の下(もと)で弟子として修行をしながら、能楽養成会におりました。それを大体5年間行いました。5年間修行しますと、弟子という時期を卒業するんですね。一人前のプロとして出るんですね。つまり、能楽養成会を卒業するんです。これがいわゆる独立、「一本立ち」ですね。それまでは寺井という自分の師匠の下に入門していましたから、通称かばん持ち、「付き人」です。常に先生にくっついていって、着物を用意したり、お茶やお弁当を出したり、靴もったり鞄もったり、色々な身の回りの事一切合切をお世話して、空いた時間に直接お稽古を受けるんですね。ということで、実際の私達の仕事は能楽堂というところになるんですが、ここの楽屋へ出入りして、自分の師匠が舞台に出ている本番の時に常に見ていて、色々な事を身体で勉強するんです。そういったことをざーっと5年間やっておりました。 一通り稽古して、5年間経ったら師匠より「俺に付かなくて良いよ」と言われて独立するわけです。それまでは、舞台に出る役、「○月×日に△△にてこういう曲目をしますのであなたに笛の役をしてください」という仕事の依頼は弟子の間は来ないんです。たまに来ても師匠経由なんですね。師匠のところに来て、師匠がそれを見て、これなら良かろう、というものを許可を受けるんですね。ところが独立しますと師匠関係なく、私に直接主催者から仕事の依頼が来るんです。これが独立一本立ちというものですね。このころから、やっと「ああ自分はプロになったんだな」という自覚が出てくるんですね。 記: はじめは収入というのはどうなっていたのですか? 内潟さん: これだけでは実際には収入が少なくて生活できません。基本的にはやはり師匠のところに仕事が来て、私達のところに仕事はなかなかこないんですね。ある意味、簡単なものだけが、いわゆるオコボレみたいなものが来るのですが、これではとても生活できませんでした。大学卒業してから、私は学校で教員をやっていたんですね。もちろんプロとしての笛の勉強もしました。 記: あ、そうなんですか。 内潟さん: そう、傍らでね。ですから平行してやっていたんです。実際に私は今、草加というところに住んでいるのですけれども、ここで10年くらい小学校の教員をやっていました。 記: 小学校の教員ですか。 内潟さん: はい。二束のわらじというのかな、2つ仕事を持っていたんですね。能公演の仕事は平日あんまりなくて、土日が多いんですね。なので、土日は舞台に出て、月曜日から金曜日は学校の先生をして、夜稽古していたんですね。とはいっても、色々とリハーサルとか打ち合わせとか、舞台の用意もありますから、平日でも学校を抜け出していかなくてはいけないこともありました。その時は学校に迷惑をかけてしまうので、随分白い目で見られたこともあったんですよ。まあ、それはしょうがなかったんですけれどもね、だからいつも頭下げていましたが。でも、段々やっているうちに、能楽師としての仕事が多くなって来たんですね。バランス的に変わって来てしまったので、昭和57年か58年に、学校の方を辞めたんです。自分が能楽師のプロとしてやっていける、という目処がたったんですね。 記: ということは、大学の時に教員の免許も一緒にお取りになったんですね? 内潟さん: そうです、取りました。 |