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記者(以下、記): 早川さんのお仕事であるNHK解説委員についてお話し頂けますでしょうか?
早川さん: 日々起きているニュースをニュース原稿として流すのが記者の仕事です。そして、一線の記者は日々の出来事を追いかけてニュースとして出すわけです。日々のニュースを見ていても、これがどういうことを意味するのかというのは分かりにくい事が多い気がします。記者達は当然そのニュースの本質について知っているのだけれども、解説の仕事はそういうものをある時点で一回堰き止めて、今起きている事とは一体何なのだという事を分かりやすく伝えるという仕事なのです。新聞は各社「社論」があって社説を載せるわけですけれども、NHKは公共放送ですから新聞と違って、不偏不党、公平公正、中立という立場ですので、「世の中の人達にとって有益な情報を噛み砕いてお伝えする」という役割を担っています。それが私達の仕事です。 記: それは解説委員のお仕事なのですか? 早川さん: 個人的な解釈ですけれども、解説委員の仕事として求められていることはそういうことだろうと思います。同じ解説委員の仕事をしている人でもいろいろに物事を解釈ができますから、私はそういう解釈で仕事をしています。 記: 早川さんはNHKに入局される際に放送記者として入局されたとお伺いしたのですが、今のお仕事である解説委員に就くまでの経緯をお話し頂けますでしょうか? 早川さん: NHKに入る時は、ディレクターを希望してNHKの試験を受けました。ドキュメンタリーを作りたいというのが自分自身としての希望でした。今の仕事とは随分違う道なのですけれども。NHKの最終面接を受けた時に、「読書傾向にちょっと偏りがあるのではないか?」というようなことを言われて、私はその事に腹を立てて「それは偏見だ。」と言い返しました。そのやり取りの中で、面接をしていた人が、「NHKというのは色々な人間がいて、それぞれの自分が得意とする所や分野、色々な考えを持つ人間がいてバランスがとれている会社なのだ。」という風に言っていました。そういう事ならば、私も選んでいい会社だと思い、この会社を選びました。今とは違って、私が就職した頃というのは、まず民間企業の就職戦線があって、一ヶ月遅れぐらいでマスコミの試験があるような感じでした。9月か10月に企業訪問が始まって、お見合いをして民間企業等に決まった後で、マスコミの試験があった時代でした。私も一応民間の企業も受けたのだけれども、これで就職してしまっていいのかという思いがありました。当時ストレートにNHKを目指したということではなくて、マスコミの仕事をしたいと思っていたのだけれど漠然としていました。 記: 似た業種の企業を受けていたのですか? 早川さん: そうでもないです。ただ、思いはベースとしてありました。例えば、今でこそエコロジーって当たり前の時代になってきているのですけれども、僕がこの会社に入る頃というのはまだまだそういう時代ではなくて、「大きいことはいいことだ」という時代でした。そういった時代に、「小さいことはいいことだ」と考えていたので、それだけを選ぶというのは非常に矛盾もあるのだけれど、何をやるという具体的な事ではなく、そのようなことをやりたいと漠然と思っていました。民間企業に回って自分なりに決めたのだけれども、なんとなく腹に落ちず、決めた企業には悪いのだけれどもダメ元でいいから受けてみようかと思って、NHKの試験を受けました。そして最後に面接官とのやり取りがあって、色々な人がいていいのだという面接官の一言が確信になったのを覚えています。 記: 放送記者として入局され、その後に報道局の社会部にて文部省担当になられたとお伺いしていますが、なぜ教育という分野に進まれたのですか? 早川さん: 運命の赤い糸だと思っています。人には、記者の世界でもいわゆる敏腕記者という、いわゆる“特ダネ記者”という人や、下で支える“人情型”、“縁の下の力持ち”的な記者など、色々なタイプの記者がいると思います。僕はどちらかというと敏腕系ではない、ということで割と地方の経験が長く、千葉に3年、函館に5年いました。やはり、一度は第一線で活躍してみたいという気持ちがあったのですが、ちょうどその時に同期の人たちが次々と東京に異動になる中で、挫折しそうになっていました。柳田邦夫さんというノンフィクションライターでNHKの先輩がいるのですが、その人が書かれた本に出会って、その本の中に取材者の心得が書かれてありました。はっきり覚えていないのですけれども、「自分の与えられた場で最大限努力する」つまり、「社会正義の為にがんばらなくてはいけないのだ」ということが書かれていて、励まされたのを覚えています。そして、腐らずに行こうと思っている頃に東京に異動になりました。皆5,6年で東京にくる人が多いのですけれども、僕の場合、8年で年齢的に割と遅めでした。なので、社会部に配属になった時に、「何でもやります。」と言いました。たまたま、「何でもやります。」と希望する人は比較的少なくて、逆に言うと皆特ダネ記者から王道を歩みたいと希望する人が多いのです。事件記者というのはとても人気があり、僕も事件記者にあこがれてこの世界に入ったみたいな所があるのですけれども、ほとんど皆が事件記者を志望したので、僕は「何でもやります。」と言ったのが成功だったか失敗だったかは分からないのですけれども、たまたま希望者のいなかった文部省担当になりました。柳田さんの本を読んで、どこでも自分の伝えたい正義というのはあるのだと感じました。それで、やれることをやりたい、そこにはきっとやれることがあるだろうという風に思ったのです。実際にそこに行ってみたら、いろいろ揺れ動いている時期だったので、正に皆さん方、大学生が今苦しめられている入試改革真っ盛りの時期に文部省を担当したので、入試制度のあり方を一生懸命追いかけていったところから教育の取材が始まりました。 記: そのことが将来、「週刊子どもニュース」という形になって出てきたのですか? 早川さん: 記者時代の話なのですけれども、学校の取材をしている時に、お母さん達の会話の中で「ゼネコンってどこの会社かしらね?」という言葉を耳にしました。この言葉を聞いた時に、日々ニュースとして流れているものがきちんと説明されていないなと思いました。大人のニュースでしっかりと立ち止まってそういう事を丁寧に行うということは、なかなか今のニュース番組の中では難しいので、何か良い方法はないだろうかと考えました。報道局の中で、毎年番組を検討する会議があるのですが、そこに提案文を一枚書きました。今の子どもというのは大人以上に大人の世界を知りたがっている。その子ども達にも分かるようなニュースを作ることが出来たら大人の疑問にも答えられるのではないかという企画書でした。それは一回潰れたのだけれども、局内的な事情の中で奇跡的に復活し、「週刊子どもニュース」が出来たのです。 |