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大橋鎮子さんは、戦後まもなくに「暮しの手帖」という雑誌を創刊し、今まで半世紀以上に渡り、日々の生活の大切さを雑誌に込め読者に届けられてきました。
記者(以下、記): 大橋さんはどんな子ども時代をおくられたのでしょう? 大橋さん: 私が一歳のとき、父が勤めていた日本製麻株式会社の工場長になり、北海道に転勤しました。私は、石狩平野の見渡す限りの平原の中で幼少時代を過ごしています。父が工場長だったため、子どもの中でも私がガキ大将でした。朝、目が覚めると、工場の子どもたちが、うちの前で待っていて、それで遊ぶのですが、当時遊ぶと言ってもおやつがないので食べ物を探すのが遊びです。西洋タンポポの茎の甘いのを吸ったり、木の実を取って食べたり、川で蟹を食べたりしていました。毎日、一日中野原で遊んだんです。牛がモーっと鳴くのがお昼の合図でした。鳴き声を聞いたらお昼を食べ、夕方になるまで遊び、暗くなると家に帰る。そんな暮しをしていました。 記: まさに自然児ですね。 大橋さん: はい、本当に自然が身近にある生活でした。一人でいたら熊に食べられてしまうくらいの所なのです。熊が年中、私のうちの向こう側の山を歩いているんです。熊というのは、とても怖がりなのです。人間は一人でいると襲われて食べられてしまいます。逆に二人でいると熊が逃げると。人が手を結んで助けあわないと生きてゆかれないところでした。例えば秋には、会社をあげてのぶどう狩りに行って、ぶどう酒を造ったり、お砂糖で煮てジャムを作ったりしました。それは北海道の人たちにとって一つの楽しみであり、また大切な貯蔵食料でもあります。ぶどう狩りのときにも、熊が襲ってくるといけないから焚き火をしました。動物はとても火が怖いのです。そうして動物が寄ってこられなくし、子どもたちは焚き火の廻りで遊び、お父さんやお母さんが、その周りで野ぶどうを採るという光景でした。 記: 今の私たちには決して味わうことのできない環境ですね。
大橋さん: 北海道で人を大切にすることを学びました。人は一人では生きていけません。都会の中で人が一杯いて、幸せに生きる人はそんな風には思わないと思います。 北海道の人たちは雪の中で暮していたため、毎年9月か10月になると、冬に向け穴を掘りお野菜を埋めておきます。またお砂糖などの食料も貯蔵しておく、という生活をしていました。つまり何にも買えない時期があるわけです。そういう体験は私にとってはプラスでした。だから私は北海道の雪の中で過ごしたことを良かったと思っています。 記: いろんな経験を必ず自分のものにしてプラスにして生きてこられたようですね。 大橋さん: そうです。自分のものにするというか、よい方に解釈します。私は、よく 大橋さんは手をあげて叩こうとしても、おいで、おいでと言ってるといい方に捉えてしまうからと言われてしまいます。 記: ずっと北海道にいらしたのですか? 大橋さん: いえ、父が肺結核になり、その頃、肺結核は鎌倉の海岸に行くと治るということで、鎌倉の病院に入るために東京に戻りました。結局父は鎌倉の病院に入っても一向によくならず、東京の病院の方がいいと東京に戻り、東京の病院で亡くなってしまうのですが、その間私は私でお母さんを助けていました。小学校5年のときに父が亡くなり、自分のことを考える前に母がとっても苦しい生活をしていたわけですね。だからお母さんを助けられるような仕事をしようと思ったんです。 |